友人


友人

 

 彼は、高校の講堂の舞台の上で、秋の文化祭に向けたリハーサルを繰り返していた。彼のベニーグッドマンを真似て吹くクラリネットは哀愁に満ちていた。ぼくはウットリとその音色に聴き入り、何とも切ない思いが込み上がってくるのを感じた。彼のバンドはコントラバスとギターの3人で編成された小規模の楽団だった。僕はその場で「僕ををヴォーカルで入れてくれないか」と頼んだ。「それじゃそこで唄ってみろ」と言うので2〜3曲歌って聞かせたが「お前のは歌謡曲で我らが目指すジャズとは違う」と言って断られた。これからレコードで勉強するからと粘ったが取り合ってもらえなかった。これが僕が彼と知り合った最初の出合いだった。それでも僕は彼らのバンド演奏を聴くため練習現場に通ううちにメンバーには加えてもらえなかったが、友人として彼らと親しくなっていった。彼は鈴木章治の“鈴懸の径”なんかを好んで吹いた。何時も彼の演奏は、魂の叫びみたいなものを感じて身体全体が揺さぶられた。それからは僕は彼らメンバーと生涯の伴走者になった。彼はジャズの話になると熱くなった。「ジャズはなぁ、大きく分けて3分野に分けられるんだ。デキシーランドジャズとスウィングジャズとモダンジャズの3分類だ。デキシーは黒人のジャズで楽器がテンデに演奏されていてそれで1つの楽曲になっている“聖者の行進”なんかがこれに当たる。スウィングは、主に白人の間で演奏され整然としているが、こう揺れるような感覚があるこれが我々の目指すジャズなんだ。この違いを感じてみろよ」と語って何枚かのレコードを貸してくれた。

 彼の自宅は、僕たちの高校のすぐ近くの武家屋敷の建ち並ぶ住宅街にあった。こじんまりとはしているが、木製の門構えで生垣に囲まれた瀟洒な建物だった。僕が遊びに寄ると決まってお年寄りの彼の父親が応接間のソファにゆったりと座っていて英字新聞なんかを読んでいることが多かった。そこは日のよく当たる部屋で箱庭のような日本庭園が一望できた。壁際には本棚が置かれそこにはブリタニカの辞典、英和辞書、医学専門書がずらりと並べられておりその間に存在感のある黒光のピアノも設置されていた。彼は父親が50歳の時に生まれた子で兄さんと2人兄弟だった。父親はつい最近まで地方の大きな総合病院の院長を勤めていたが今は引退しているとのことだった。母親は和服のよく似合う無口で控えめな女性だった。その頃の僕たちは彼は本妻の子だとばかり思っていた。それがそうでないと分かったのはずっと後の大人になってからだった。やがて彼は恋をした。同級生で小柄で色は黒かったけれど魅力的な眼をした笑顔の可愛い子だった。彼から彼女が風邪で休んでいるので一緒に見舞いに行ってくれないかと頼まれ、バンドメンバーと共に連れ立って行ったら、街の真ん中の商家の2階にある彼女の部屋に通され、そこでしばらく雑談していると、彼女の母親がしゃれたお皿に斜めに切られたバナナをそれぞれ2切れづつ乗せて運んできた。その美味しかったことといったらなかった。お金持ちはこんな果物を食しているのかと感動した。彼が音楽大学へ進学すると言い出したのはおそらく彼女の影響もあったのだろう。彼女もまた音楽大学を目指してピアノの練習に励んでいた。音楽大学に入学するために、東京の目指す大学の教授のところへレッスンに行くと言い。月に1〜2度高校生の彼が東京までレッスンに通う姿を見て驚いた。音楽大学へ入学するのに幾らお金がかかるのだろうと思った。

 高校を卒業するとメンバー全員進路が決まった。彼は東京の私学の音楽大学に入学し、僕は私立大学の経済学部へ入学した。時々僕は彼の下宿を訪れた。音楽大学の学生は我々一般学生とは異次元だと思われる学生生活を送っていた。下宿は大きな一軒家に男女混合で住んでいて現在のシェアハウスと言うのかルームシェアと言うのかそんな形態で居間にはピアノが置かれ交代で練習できるよう時間割が決まっていた。台所も共同で当番制で何人かが食事を作っていた。食事が終わると各自自分の部屋へ帰っていった。話し言葉も僕らには理解しがたいものが多かった。ジャズをズージャと言ったりツェーセン線がどうのとかべー線がどうのとか外国語を交えた物言いで隠語みたいだった。大学の周りは1部屋1台のピアノを置かれた小部屋が沢山建ち並び校舎を囲んでいた。音楽祭に、講堂に行くとオペラが演じられており、その声はマイクなしで広い会場に鳴り響いた。その迫力に僕は感動した。それら彼らの生活は僕の目には新鮮でハイセンスに映った。

 彼は、大学を卒業すると、2〜3年は東京にいて著名なオーケストラのメンバーとして働いたり、バンドマスターしたりしていたがその後帰郷、結婚すると言って音楽大学の同級生を連れてきた。結婚式は派手だった。グランドピアノが置かれた会場で花婿が弾き、花嫁が弾き兄が弾き、友人達も演奏しピアノ演奏会かとみまちがうほどだった。仲人が紹介するのに花嫁はトヨタ自動車の下請け工場だが沢山の従業員を抱えた大工場の社長令嬢だという。また働き先は地元私立大学で最近創設された音楽部に夫婦で講師として勤務するとのことだった。

  次男の彼の新居は自宅近くの小学校裏の建て売り住宅街の一角に構えた。豪華な家具がひしめき居間にはグランドピアノと箱形ピアノが向かえ合わせで置いてあった。花嫁は陽気で品のある美しい人だった。

 ある時彼が美人の学生を紹介してやるから来ないかと誘ってくれた。僕は喜んで指定された喫茶店へ行くと、はたして華やかで髪の長い今風の女性が2人いた。そこで彼に気安く話しかけると彼に「オイ、チョットコイ」と外に呼び出され、「生徒の前でお前などと言うな、オレは大学の講師で彼女らは学生なんだ。だからオレにもう少し敬語を使え」と言った。これにはさすがに温厚で知られる僕もカチンときた。「僕はお前の生徒ではない」と言ってそのまま帰ってきた。

  彼は、ジャズに余程未練があったのか大学に勤めながら夜地元の経済人の社交場になっている、高級ナイトクラブのバンドマスターを勤めるようになった。「奴はすごいぜ、クラブから支給された給料袋が立つんだってよう」と同窓のバンド仲間が言った。僕らの給料が数万円程度の時だから、幾らもらったら給料袋が立つんだろうと思った。この頃からだと思う「僕はプロだから」と言って、僕の家へ遊びに来てもピアノや楽器の演奏を渋るようになったのは。しかしこのことが大学にも知れるところとなって彼は辞職に追い込まれた。夫婦仲も悪くなってきたような気がしていた。

 ある時僕が彼の家へ行き、玄関で呼び出しボタンを押すと、「開いているから上がってこい」と言う。玄関に入ると閑散としている。声のする方へ向かって歩くとどの部屋ももぬけの殻であれだけの家財道具が全くない。ピアノのあった居間に入ると一流れの布団が敷かれその中で彼は腹ばいでたばこを吸っている。しかも隣には女性が背中を向けて寝ているではないか。こんな驚いたことは僕の生涯で初めてではないかと思った。「これはどういうことだ」と問うと「妻は、家財道具の一切を引き上げて出て行った」と投げやりに言った。「何か用か?」と言うので僕は「ご機嫌伺いに来たがお取り込みのようなので」と早々に退散した。後でバンド仲間に聞くとその女性は高級クラブのホステスだという。それでも僕ら同窓生は彼が出演するジャズ演奏会は、見物に行き、たまには食事も一緒した。彼は「最近は、呼ばれる店に行っているので下手な酔っぱらいの伴奏なんかもしている」と悔やんでいた。やがて彼は再婚したが、その後の詳しいことは知らない。

 ある時銀行の人事部に用があり裏口の玄関から入ろうとすると、警察官のような制服を着いた彼が立っていた。びっくりした眼差しで彼を見ていると、彼が少し恥ずかしそうに寄ってきて「オレ今ここに勤めているんだ」と警備業の会社の名刺を出した。

 最近になって同窓バンド仲間から連絡があり、久しぶりに3人で会わないかとの誘いだった。もう一人の秀才だった仲間は白血病で若くして亡くなっていた。迎えの仲間の車で約束の喫茶店へ行くと店は2階にあって、彼は階段を前にして途方に暮れている。聞けば彼はその後ひどい感染症にかかり現在障害者2級だという。折角だからと言って頑健な身体をした仲間が介助しながら上っていったが、僕だって傍からは元気そうに見えるが、肺を患っていて手すりにしがみつき大きく深呼吸しては2〜3歩上がり少し休んでまた深呼吸して上がるといったていたらくだった。しかし不自由そうに登っていく彼の背中からはジャズは流れてこなかったけれど深い哀愁をただよわせていた。それを見て僕の目に熱い物が込み上げた。そして歳月の流れを感じた。魅力的で素敵な美男子だった彼の面影は消えていた。歳月が過ぎれば過ぎるほど老いは加速していく。それは精神的にも肉体的にも衰えていくということで、その歳月の先には死が結びついている。僕らは後何年生きるのだろうと思う、僕は三途の川の待合所へ行くような気分になってリバーサイドの洒落た喫茶店の椅子に腰を下ろした。窓外には若者達が乗ったカヌーが何艘も列をくんでじゃれ合いながら通り過ぎていくのが見えた。

                                                             

(忠)

 


前ページに戻る

Copyright(C)2009 徳島県中小企業団体中央会 All Rights Reserved.