父と母


父と母

 

「私、女学校時代勉強大嫌いでね、早く卒業したいと思っていたの。それで卒業式の日ありったけの教科書を鞄に詰めて、一人で万歳を叫びながら新町橋から放り投げてやったのよ。そりゃあスッキリしたわ。」僕の高校の同級生が4〜5人いる前で例のごとく母のトークショーが繰り広げられていた。友人たちは「わしらもやろう。」などと口々に快哉を送っていた。社交家でもあり話を面白おかしく話すので僕たち同級生にも人気があったのだ。「今みんなが使っているプールは、私の女学校時代からあって、私水泳部の短距離選手だったのよ。私が水着を着てプールに降りていくと塀の上から他校の男子生徒がズラリと顔を並べているの。みんな自転車の荷台の上に立って私を眺めているのよ。そりゃあ私スタイルも良かったからね。卒業してから私の水着姿が新聞に掲載されたぐらいだからね。」などと得意げに喋って、やんやの喝采を浴びていた。今はセピア色になってしまった写真の中の若い頃の母は、原節子に劣らぬ美形だったので、こんな話もまんざら風呂敷広げとは思わなかった。こんな母を僕は自慢に思っていた。


 父と母の出会いは、母が当時丸新デパートにあったツーリストビューロー(現在のJTB)に勤めていた折、たまたま切符購入のために立ち寄った父が母を見初めたことに始まった。そこから両親に頼み込んで仲人を捜し婚姻までこぎ着けたという。父は剣道2段の腕前で、一級建築士の免許を持っていた。満鉄(南満州鉄道)に勤め、駅舎の設計や監督、建物管理をしていたそうだ。シルバーグレイがよく似合い、見かけも良かったので、一緒に連れ立って歩くのが誇らしかったが、65才でその生涯を遂げた。胃がんを患ってのことだった。給料日には、必ず宝くじを買って帰ってきた。それを、朝の新聞で当選番号を探しては、その都度失望していたが、それを退職まで続けた。一度だけ1万円が当った事があって、大喜びをしていた表情が忘れられない。


 僕たちは、終戦後故郷へ引き揚げてきた。幸い父の実家は、大空襲から免れて、2階建てで寄せ棟造りの家屋が無傷のまま残っていた。それを僕が大学生の時、鉄筋コンクリートの住宅に建て替えた。帰国時、僕はまだ2才だったから、満州での生活はもちろん帰国時の状況は覚えていない。満州の生活でよく母が「満州はとっても寒いところでね、雪が積もるの。買い物に行くときはあんたをそりに乗せてね先端のひもを引っ張って連れて行ったものよ。うんちなんかね、すぐカチンカチンに凍ってしまうの、だから中国人は穴を掘ってそこで用を足すの、それを積み重ねるとうんちの氷柱ができるのよ。」と言っていた。


 

実家には、祖父は若死にし、母親と父の妹二人がいた。帰国後父は、県庁に勤めた。父は、僕の目からは、直で仕事好きのように見えた。常に方眼紙を携えて、建物の間取りなんかを考えているようだった。僕の姉を病で2歳半ばで亡くしたために、父と母は僕を溺愛した。その証拠に僕の小学校時代の集合写真を見るとクラス全員の写る中で他の児童たちは終戦間もないことから、着ている物はヨレヨレでくたびれた服をまとっているが僕だけはネクタイをし、半ズボンにジャケットを装い真ん中に座っている。また家の庭には、ブランコやシーソー、砂場などを父が大工さんや鍛冶屋に作らせて設置していた。僕は得意だった。当然ながら僕は仲間のみんなから羨ましがられる存在になった。小学生になったとき僕ら仲間たちの間で野球が流行ってた。三角ベースでよく遊んだ。父ともよくキャッチボールをした。母が布を縫ってグローブを作ってくれた。うれしかった。中学生になって父が革製のグローブを買ってくれたときはもっとうれしかった。毎日ドロースで磨きピカピカのグローブで野球を楽しんだ。当時県庁の給料は、安かったようだった。僕の家には頻繁に建設業の営業マンが出入りしていた。今では信じられないが、おそらく入札の情報を得るためだろう。父は頼まれて民間のビルなんかを設計し、家計を助けているようだった。それでも母は、給料日前には、支払い先を書いた袋を丹念にいくつも作って、足りない足りないと言っていた。母は友達と大阪まで買い物に行ったり、遊びに行って当時はやっていたロカビリーなんか楽しんでくることもしばしばあった。僕が高校生になるまでは、夫婦仲は非常に良かったように思う。手製の卓球台で、夫婦でピンポンを楽しんでいる光景をよく見た。その後、夫婦仲が少しずつ悪くなっていったように思う。晩年は母が父をなじっていることが多くなっていった。それはたいてい父の判断力に対する悪口だった。僕が結婚したときあたりからさらにエスカレートしていった。母は、父が満鉄に勤めていたとき給料の半分を実家に仕送りしていたこと。僕の高校受験の際、先生が勧めてくれた学校に行かず父が近い方がよいと言って、ランクを下げたために大学のレベルが低くなってしまったこと。僕が見合いしたとき、父が母の言い分を聞かずに父が気に入って結婚させたこと。ハルビンから引き揚げてきたときには未婚の義理の妹にいじめ抜かれたのに父は助け船を出さなかったことなど止めどがなかった。それはたいてい夕食の時だった。父は、晩酌をチビチビ飲みながら母の毒付きを黙って聞き流していた。時折腹に据えかねた父が怒鳴ることはあったが、たいていは母の興奮が収まるまでやり過ごしているようだった。一度だけ父が飲んでいたお銚子を茶箪笥に投げつけて母を殴ろうとしたときがあった。あれはびっくりした。その時僕は身を挺して母を守ったけれど、内心は父に同情していた。毎日のようにこれをやられたらそうなるのも無理ないなと一瞬そう思った。だから父が胃がんを患いあっちこっち転移し亡くなったときは半分は母のせいではないかと思った。父が亡くなるとその対象は僕に変わった。「嫁の尻にしかれて母親をいじめる。」と言って毎日僕を責め立てた。「遺産はあんたにやらない、すぐ出て行け。」と言う。それで一時近くのアパートに引っ越したら、今度は戻ってこいと言う。「家を建てさせてくれたら戻る。」というと母は渋々承諾した。家屋を建築し出してからも揉めた。「増築でよいではないか、玄関やトイレや風呂などは、一カ所で十分ではないか。」と言うが、僕は「母屋とは廊下でつなぐ構造だから大丈夫。」と説得し新築にした。しかし、家に戻るとまた「近所中に大恥をかいたではないか、この親不孝者」となじって僕を責めた。しかし一方では、母は孫たちを眼に入れても痛くないほどかわいがり、妻の悪口以外は僕たちの負担を軽減してくれたので、僕たち夫婦にとってもありがたい存在だった。もちろん妻もこの後も働きながら食事の支度から母の面倒は厭わずしていたように思う。その母も、糖尿による心筋梗塞で去っていった。78才だった。
今の私は、父が亡くなった年齢から6年も長生きしている。この年になるまでに食道がんと肺がんを患ったがあえぎあえぎだが何とか生きている。そしてたまに父や母のことを思い出す。現在僕は、妻にイビられている。因果応報とはこういう事かなと思う。

 

                                                             

(忠)

 


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